大雄院は、新田金山城主由良家に関係する古書類から推定して、天正11年(1583)由良家家臣桐生城代藤生紀伊守の建立によると言える。開山は日栄春朔和尚による。
その後、元禄15年壬年(1705)5月、大雄院梵鐘が鋳造され寄進された。その他檀家より土地・金銭などいろいろな寄進奉納があった。
四世格雲和尚の代には本堂(当時禅宗では客殿という)の建立が行われ、津久井、武、彦部、中里、竹沢、丹羽、毒島、小生形、伊藤、須永等の諸氏の田地、仏具、金子等の寄進があった。
また、現在も寺宝のひとつであり群馬県重要文化財にもなっている「刺繍涅槃図(ししゅうねはんず)」はこのとき造られたものである。裏書きに寄進者数百人の名前が記されている事からも、当時の一大事業であったことが偲ばれる。
六世綱洲和尚の代には経蔵と山門の建立があった。
山門建立は正徳3年(1713)、中里新左衛門の一寄進により、30年を経てようやく寛保3年(1743)、春より工事にとりかかり、その年に建立となった。山門の建立には経蔵の建立もあり、大変な仕事であった。
隆盛時には次の末寺が存在したと言われている。
宝殊院(現在広沢町四丁目) 、祥雲寺(境野町六丁目)、喜応寺(不明)、 漸雙寺(寺跡所在地広沢町三丁目一七七七 禅双寺)、 常林寺(寺跡所在地広沢町三丁目三五八五)、 源光寺(不明) 、重蔵院(不明)
明治維新以降は神仏分離や廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)といった動きのなかで、寺院は大変苦しい時代を過ごすようになった。
戦前戦中は庶民の生活も大変困難な時代であった。本寺も桐生市健民修練の道場として、虚弱体質の青少年の育成に寄与し、また、戦時色が激しくなると、周辺の諸都市が爆撃にさらされ、それを避けるため、桐生登記所が本寺に疎開して来た。
戦後は敗戦の混乱が続き人心もあれ、昭和30年代になり、ようやく落ち着きを取り戻して来た。
昭和38年、先代からの懸案であった本堂の屋根替えと梵鐘の再鋳を、弘勇住職は檀徒に呼びかけ、協力を得て成し遂げることができた。
昭和45年に庫裡の新築、昭和57年に山門改修、昭和60年には書院増改築・観音堂屋根替え等、檀徒の協力により、本堂以外の修復は一応整った。
本堂のみは檀信徒一同による寄付であるが、堂内仏具・龍天井彫刻・その他諸堂・池・石垣・塀など境内のいっさいの整備および工事は毒島邦雄氏の一寄進によるものである。
なお、その功績にたいして、大本山より大雄院中興開基の称号が与えられた。現二十世弘勇住職には本山より「大教師」の称号をいただき、寺も「格地」という格式をもった。
平成12年5月2日・3日と大雄院諸堂落慶式記念行事が、本山總持寺大禅師および教区寺院を迎えて檀徒をあげて盛大に行われた。
和暦 | 西暦 | 内容 | 歴代住職 |
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正安 2 | 1300 | 足利太郎矢田判官源義清二男廣澤判官義実 | |
廣澤山大王院父義清菩提のため建立 | |||
天正11 | 1583 | 由良家桐生城代藤生紀伊守大雄院を廣澤山寄居に建立 | 開山/日栄春朔大和尚 |
日栄春朔和尚により開山 | |||
文禄元 | 1592 | 8月7日日栄春朔大和尚遷化 | |
寛永10 | 1633 | 9月18日二世牛室香大和尚示寂 | 第二世(祥雲寺開山)/牛室香大和尚 |
延宝 5 | 1677 | 3月20日三世桂山致昌大和尚示寂客殿(本堂)の建立 | 第三世(宝珠院開山)/桂山致昌大和尚 |
宝永 2 | 1705 | 刺繍涅槃図丹羽・津久井・中里・毒島・藤生等の寄進 | |
宝永 6 | 1709 | 3月13日四世格雲芳逸大和尚示寂 | 第四世/格雲芳逸大和尚 |
正徳元 | 1711 | 10月24日五世大義本存大和尚示寂 | 第五世/大義本存大和尚 |
享保12 | 1727 | 経蔵建立・書籍の寄進 | |
寛保 3 | 1743 | 中里新左衛門山門を建立 | |
宝暦10 | 1760 | 7月22日六世綱洲規範大和尚示寂 | 第六世/綱洲規範大和尚 |
明和 9 | 1772 | 6月11日七世桃屋利源大和尚示寂 | 第七世/桃屋利源大和尚 |
安永 5 | 1776 | 9月16日八世俊山白鷹大和尚示寂 | 第八世/俊山白鷹大和尚 |
安永 9 | 1780 | 11月6日九世徳厳芳隣大和尚示寂 | 第九世/特巌芳隣大和尚 |
文政 2 | 1819 | 7月27日十世光禅独昭大和尚示寂 | 第十世/光禅独昭大和尚 |
文政 5 | 1822 | 11月3日十一世栄門穏盛大和尚示寂 | 第十一世/栄門穏盛大和尚 |
文政 8 | 1826 | 12月23日十二世完翁穏盛大和尚示寂 | 第十二世/完翁穏全大和尚 |
天保 4 | 1833 | 2月2日十三世興学梵盛大和尚示寂 | 第十三世/興学梵盛大和尚 |
天保 9 | 1837 | 6月22日十四世天戒梵孝大和尚示寂 | 第十四世/天戒梵孝大和尚 |
嘉永 2 | 1849 | 3月20日十五世大安国全大和尚示寂 | 第十五世/大安国全大和尚 |
安政 7 | 1860 | 3月22日十六世徳明曇龍大和尚示寂 | 第十六世/徳明曇龍大和尚 |
明治18 | 1885 | 3月20日十七世安祖孝穏大和尚示寂 | 第十七世/安祖孝穏大和尚 |
明治23 | 1890 | 10月5日十八世雄山卓然大和尚示寂 | 第十八世/雄山卓然大和尚 |
昭和34 | 1959 | 2月8日十九世真龍凌雲大和尚示寂 | 第十九世/真龍凌雲大和尚 |
昭和38 | 1963 | 本堂屋根替え・梵鐘の再鋳 | |
昭和45 | 1970 | 庫裡の新築 | |
昭和57 | 1983 | 山門改修 | |
昭和60 | 1986 | 書院増改築・観音堂屋根替え | |
平成12 | 2000 | 本堂始め諸堂復興大事業をなす。 | 第二十世/橋本弘勇大和尚 |
毒島邦雄氏大雄院中興開基称号を授与される。 | |||
二十世橋本弘勇大和尚大教師の称号を授与される。 | |||
平成14 | 2002 | 永年の保護司に対して勲五等瑞宝章授与される。 | |
高祖道元禅師750回大遠忌焼香師を努める。 | |||
平成28 | 2016 | 7月24日二十世大鑑弘勇大和尚示寂 |
この山門は、記録によると寛保3年(1743)大雄院六世の綱州規範和尚の代に、中里新左衛門の一寄進金百両を基金として建立された。構造は三間一戸の楼門。屋根は入母屋造りで、現在は銅板葺となっている。柱は円柱、大面取柱、角柱の三種類から成り、用材はケヤキである。それぞれ礎石の礎盤は御影石に変えられ、四本の円柱の頭部には、象鼻が施されている。
山門の正面・背面の左右上段には、獅子頭、天井には臥龍、左右の蟇股には鶴・亀が彫刻されている。門内には四天王像(東方持国天、南方増長天、西方広目天、北方多聞天)が配され、それぞれ足下に邪鬼を踏みおさえて須弥壇上に立ち、周囲には錫杖形の柵が回っている。楼上には、帝釈天像をはじめ十六羅漢像が安置されている。上層の縁は擬宝珠高欄を四方に回らせた和様の形式で、破風の拝み部には猪の目懸魚が付けられている。また、舟肘木、眉、袖切りのある虹梁も見られる。
四天王像の配された山門としては、市内唯一のものである。
昭和59・60年度の2カ年にわたり、保存修理がほどこされ、軸装から額装に改められた。
地は絹布で下図を描き、この部分に金糸と五彩の太絹を斜めに並べたものを細い絹糸で綴った刺繍物である。色彩は全体に淡い渋さをもち、配色は巧みで縁取には金糸を使い、事物の表現に効果をあげ、地の白さとあいまって、絵画の涅槃図とは別の趣きを出している。構図は涅槃図で、沙羅樹林の間の波の技法に、大和絵の流れを伝える家棟型の連続様式がとられ古様である。また中央下部の僧の右肩の「現住格雲和尚」はこの涅槃図を発願し、多数の寄進を得て完成させた大雄院四世格雲のことである。作者五郎兵衛は京都西陣縫師という口承以外明らかではない。
涅槃図は、高さ245センチメートル、幅240センチメートルという大変大きい物である。