山門は桐生市重要文化財に指定されている。「廣澤山」と書かれた扁額が中央に掲げられ、屋根は銅板瓦棒葺きの入母屋造り、桁行三間梁間三間の楼造りで、中の二本の柱は直径が丸一尺、外の二本は九寸くらいの八角柱となっている。
左右に金網に覆われた四天王が境内の守りを固めている。右に多聞天が右手に鉾(ほこ)をもち、両足で邪鬼を押さえ込んでいる。これは北方の守りである。左の持国天は東方の守りをしている。右手に剣を持ち、左手で侵入を拒むように威嚇し、両足で邪鬼を押さえている。本堂側の多聞天の裏に当たる所には西の守りを司る広目天が、左に経文を持ち右手に筆をかざしている。右は増長天で南の守りをしている。左手に鉾を持ち右手は腰に当てている。両像とも邪鬼を足下に押さえ、厳しい顔で睨んでいる。
丸柱の上には、阿吽の獅子があり、その間にある虹梁には彩色された龍が勇壮な姿で頭上より見下ろしている。彫りは簡素であるが力強さを感じさせられる。丁度中央の左右にある蟇股には、竹の葉に亀と松が枝に鶴の木彫りがあり、本堂の方を向いて彫られている。本堂側の丸柱にも阿吽の獅子がある。
二階は天井は低く、広さもやや狭く作られている。ここには、現在本堂に安置されている釈迦如来と脇侍の仏像と十六羅漢像があった。
夜の明け初める六時、決まって響く大雄院の鐘の響きは一日の始まりを知らせてくれる。そして、今日一日の無事なる活動を祈って、先祖たちが応援のエールを送ってくれているようにも聞こえる。
本堂から見ると、西北西にあたり、袈裟丸山と赤城山の中間に、入母屋の銅板瓦棒葺きの屋根と中央に大きな梵鐘、それを支える欅の柱群、石段を十段あがると御影石でできた仏足跡がある。
梁の四方には動物の形をした木鼻がある。南北側には獅子の阿吽、東西には象の阿吽が彫られている。
屋根の大きさから見ると、支え部分が弱々しく見えるが、梁と柱の位置から二手先の肘木で軒を支えている。そのため屋根の大きさが目につく。
新鋳された梵鐘には「高岡市 鋳物師 老子次右衛門」と作者の銘が端に記されている。鐘表面全体にかけて奉納者の意が読む人に伝わってくる。
南無釈迦牟仏と大きくかかれ、般若心経と
為 毒島家代々諸精霊菩提
源照院興隆一乗作翁大居士
天寿院一室乗蓮福栄禅大姉
奉納 毒島邦雄
毒島秀行
と刻まれている。この度の大事業に際して、多額の浄財を寄付された毒島氏の先祖への願いが込められている。
一切衆生斉しく父母の恩のごとく、深く思うてなす所の善根を法界にめぐらす 道元禅師
(出会う全ての人々から与えられた愛を父母の愛と同じく深く感謝して、そのお返しを仏様にさしあげようと生きていくことが本当の幸せな人生である)
子に授る道に非ず 父に受る道に非ずただ、自修自悟自身 自得すべし 螢山禅師
(私の心は親が子に授け子が親から受けて得られるものではなく、ひたすら自分から修め自分で悟り、自分のものにしなくては得られない)
往古より仏の恩恵 大雄の 御寺にひびく 鐘の清しさ
鐘楼廣澤聳二碧空一 瑞気梵音満二大雄
留レ名二後世一一寄進 聞レ聲群類入二圓通一
大雄院廿世 大鑑弘勇
◎解説
鐘楼堂は広沢の天高く建立され
めでたく梵鐘の音は大雄いっぱいに
響きわたる
永久に寄進者の名前が残る個人の寄付
鐘の音を聞く多くの人々は皆
仏の気分になれる
大鑑弘勇大和尚の此の大事業完成への思いが刻まれている。
山門と本堂の間に、手や口を清めるお堂がある。参拝の人達はここで身を清める訳である。竜吐口は銅製の龍の彫刻があり、そこから水が出ている。そばに浄行菩薩像とそのいわれが書かれている。
水が垢や汚れを清める如く古来この菩薩に水を注ぎ、吾々の煩悩や汚泥を取り除く。タワシで擦って願をかけ、身の病も心の悩みも除いてくれる菩薩である。
近隣の人がいつもこの水で浄行菩薩像を洗い清めているため、銅像の頭部をはじめ身体の各所が磨かれてある。
四方の柱の上には象の阿吽の彫刻がなされ、蟇股には駒鳥とおもわれる水鳥がいろいろな形で刻まれている。
山門をくぐり、石段を登っていくと堂々とした姿をした本堂が現れる。「スズメと大工は軒で泣く」という言葉がある。これは伽藍の軒反りの事で、大工の腕の見せ所である。大雄院の本堂からは力強さとやさしさを感じさせてくれ、そして参拝の人々に一層の仏恩を与えてくれる。
造りは桁行七間・梁間十間で正面に唐破風の向拝があり、須弥壇(しゅみだん)の真裏に、開山堂その左に檀信徒の位牌堂がある。
向拝から大縁にあがると、まばゆいばかりの天蓋が目につく。内陣には須弥壇奥の一段高いところに、黄金色に輝く寺の御本尊釈迦牟尼仏(釈迦如来)像が御座す。脇侍は左には知恵の文殊菩薩、右に行の普賢菩薩、それぞれ獅子・象に乗った尊容を拝することができる。
柱を隔てた一段高い棚の両側に、中国で開花し禅の教えを広めた達磨大師の見慣れた像と、中国の帝王の衣冠の服装で左手を額にかざして、海のかなたを遠望している禅宗の守護神、招宝七郎大権修理菩薩像が目に付く。
内陣の左の部屋には群馬県重要文化財の刺繍涅槃図が額装にて飾られており、さらにはここの天井には龍の彫刻が施されている。部屋のどこから見ても、睨みつけられているように見えるので、「八方睨みの龍」と言われる彫刻であり、重要文化財の守り神である。
内陣の右の部屋に目を移すとまず目に映るのは「一位の木」を使った巨木の床柱である。床の間には十九世凌雲大和尚が描いた聖観音像の掛け軸が飾られている。描かれた線が柔らかく、側へ寄ってよく見てみると観音経で描かれている。先代住職の後継者を観音様にお願いした趣旨が添え書きの漢詩に表わされている。
大縁と大間の欄間には、天女の舞遊ぶ彫刻があり、よく見ると美しい眼差しとふくよかな姿は、見るものの心になごみを与えてくれる。大間両脇の欄間は、左が瑞雲にのった阿吽の龍、右は海上の波間に現れた阿吽の龍、よく見ると龍の髭が波打っている。此の上の欄間の龍は、らんらんとした目つきをしている。左の吽龍は上を見、右の阿龍は斜め下を鋭く見ている。
なお、京都の大仏師松本明慶氏・彩色師長谷川智彩氏に依頼して、旧本堂にあった仏像及び欄間の補修・彩色・監修をしていただき、見事に再生された仏像彫刻等を見ることが出来る。新しく製作された彫刻類も、要所要所を薄く彩色され、天女の目・唇や龍の目、鳳凰の目や爪などは、生き生きとして見える。また、大縁裏にある赤・白・黄色の牡丹の花の彫刻は旧本堂にあった蟇股(かえるまた)の中の彫刻である。須弥壇の上にある欄間の、鶴が舞い梅の花が咲き、仙人が二人の童子と遊ぶ彫刻は一際目を引くものである。これは「天下泰平」と呼ばれている彫刻で、旧本堂にあったものである。左甚五郎の愛弟子が彫ったものであると言われている。
奥の開山堂には、旧本堂須弥壇が見事に修復されている。また、以前修復彩色された重要文化財の一部である、十六羅漢像が左右にあり、中央には釈迦牟尼仏がおかれ、脇侍に千手観音と開山日栄春朔大和尚、それを見守るように、高祖道元像と太祖瑩山像がおかれている。そのほか数体の仏像や古くから保管されてある厨子が数個見られる。
位牌堂は、旧本堂前机が修復彩色されている。薬師如来像の両脇に不動明王と聖観音がひかえ、中央に開基藤生紀伊守と中興開基の毒島家先祖の名が記された御位牌がおかれ、周囲の階段状の棚には、本寺檀信徒の御先祖を祀る位牌が置かれている。
その近くに閻魔大王や奪衣婆像がおかれている。また、大きな摺古木が吊るされており、その摺古木には
身を削り 人につくさん すりこぎの
その味 知れる 人ぞ尊し
と、道元禅師の言葉が書かれている。
この大邦閣は旧本堂の取り壊しに伴い、新本堂の出来るまで寺の本尊を安置し、寺院の諸々の行事を行い、檀信徒の仏事・会議等をすべて執り行う所として作られた。
間口七間、奥行き十間の二階建てである。玄関を入ると八臂(はっぴ)弁財天が正面より招いてくれる。廊下には平山郁夫の釈迦牟尼仏が飾られてある。階下手前の十二畳二部屋には掛け軸がそれぞれ一幅ずつかけられてあり、ここでは会合等が行われる。奥の八畳は上段の間である。裏の山に面していて、以前は、孟宗竹の生えていたところだが削り取られた斜面に土留めとして大石が使われ、まるで断崖のようになりその下には静かな流れの池を見ることができる。左の部屋は床の間に板橋興宗禅師の掛け軸がかかり、側に禅宗の有名な禅師の使用した払子が飾ってある。右の部屋には二十世弘勇大和尚の掛け軸がかかっている。
二階は新本堂の出来上がるまでは、仮の本堂として活用されていたが、現在は檀信徒の会議や法事のお清め場として活用されている。
境内の大きなカヤの木のふもとには、水子観音が安置されている。合掌して水子観音を見つめると、母を慕う子の姿を連想させられる。この世に生を受けずに去った子等をそっと守っていてくれている。
そして近くのおたすけ地蔵と書かれた所には、数多くの石像がおかれている。幼くしてなくした子への親からの願いをお地蔵様に託したあらわれであろう。顔立ちの良い目元の涼やかな石像仏が目につく。
また、水子観音の隣には時を経て無縁仏となられた石塔が集められ、供養されている。
それぞれに手を合わせこのカヤの木のふもとを一周すると、どこからか「ありがとう」と聞こえてくるようである。
大雄池の側に建立された観音堂がある。この観音堂には馬頭観音が祀られている。古くから近郷の人々の信仰をあつめ、往時は人々が馬を連れてお参りに来たという。馬頭観音は怒りの憤怒の形相で表され、馬頭明王とも呼ばれる。怒りの激しさによって苦悩や諸悪を粉砕し、馬が草を食べるように煩悩を食べつくし災難を取り除くと言い伝えられている。普段は厨子などの扉が閉まり秘仏となっているが、正月には本堂にお迎えし、大変賑やかに幸運祭が開催される。
本堂東に周囲百五十メートル位の池があり、山を背にして大きな桐生観音像が水面を見つめるように立っている。北を向いているので、北向観音と記された御影石がある。
池には睡蓮の葉がなかば以上を占め、その横を大きい錦鯉が赤や白の色とりどりの姿で泳いでいる。春には周囲にある桜の花、吹く風に散る花びらが、水面に再び花を見せてくれる。初夏には青葉若葉の木々の彩り、秋は山の楓やもみじ、境内の桜の紅葉、一年を通して楽しめる散策路でもある。周囲の土と溶け合うようにアスファルト鋪装された道は、寺へ来た人達に寺院散歩を楽しませてくれる。
山本有三の『路傍の石』の一文が刻まれた碑、また、二十世弘勇大和尚の「人は唯一人では生きられない 多くの人とものに支えられ 生かされていることによって生きている・・・略」の碑文を読むことで、より意義深い境内の散策になるのではないだろうか。
境内東にそびえ立つ三重塔。今では大雄院の象徴ともなっている。境内からはもちろん、大雄院周辺からもその姿を見る事ができる。大雄院本堂、ほか諸堂及び境内施設は、大雄院中興開基毒島邦雄氏と檀家各位の多額な奉財により復興され、この復興大事業の一区切りとし代々御仏の苑として、毒島邦雄氏一寄進によりこの三重塔が建立された。併せてこの塔は、氏の御両親報恩供養の発願であり、毒島家の菩提と当山供養塔である。また、中には釈迦牟尼仏像が鎮座し、参拝された皆様の幸せを、そして「国土安穏・万邦和楽」と、平和への願いが込められている。建築様式は純禅宗様式で建立したものであり、平成の塔として永く日本文化を後世に継承する貴重な建物である。